毎月勤労統計調査不正問題~賃金が上がらないのはアベノミクスの失敗なのか?~

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毎月勤労統計調査不正問題に見る、景気回復と賃金上昇の関係性

 2018年12月に発覚した毎月勤労統計調査の不正問題は、当時連日のようにメディアに取り上げられ、厚労省の統計に対する認識の低さや危機管理能力の無さが問題視されました。統計に影響を受ける労災や雇用保険の給付金が低く支払われていた方々は延べ約2000万人にも及び、対象者への周知方法や差額の支給時期もいまだ完全にハッキリしたとはいえない状況です。雇用保険の給付金、特に60代前半の方々が対象となる高年齢雇用継続給付金については、そもそも会社や委託を受けた社会保険労務士等が毎月勤労統計調査によって算出された「上限額」を上回る給与を受けていると判断した労働者について、支給対象外であるからと申請自体をしていないというケースも多く、制度を熟知している方でなくては、自身が本当は給付金の対象であったと気付くことが難しいでしょう。かつて世間を賑わせた「消えた年金問題」に近いものを感じます。

  消えた年金問題といえば、その当時「ミスター年金」と呼ばれ、後の政権奪取時には厚生労働大臣にもなった民主党の長妻昭氏による厳しい追及が記憶に残っていますが、今回も元厚生労働大臣として、現政権与党である自民党に対し、キーマンの参考人招致を強く求めるなどの問題追及を行っていました。毎月勤労統計調査の不正は民主党政権時にも行われていたことであり、長妻氏の追及も自民党への批判ではなく、今後の政府としての対応をどうしていくかとの未来志向の話でありました。私も、これは政治家のせいではなく、厚労省の体質による根深い問題であると考えています。

 しかしながら、不正発覚から数カ月が経過した2019年2月ごろになると、毎月勤労統計の数値が正しい数値よりも高く算出されており、実質賃金は下がり基調であったことが問題視されるようになりました。野党はここぞとばかりに、「アベノミクスはお手盛りであった」等のあたかも政府が統計不正を指示したかのような陰謀論で攻撃をしはじめ、問題解決への道筋が見えてきません。野党として追及するところが間違っているのではと感じていますが、では「賃金が上がらないのはアベノミクスの失敗だ」という指摘についてはどうでしょうか。賃金が上がっていない、それはすなわちアベノミクスによる景気回復が実現していないのだという主張であり、至極まっとうな指摘のようにも思えます。ところが、労働問題の専門家としては、その主張はちょっと違うのではと思うのであります。あまりメディアでは触れられていないのですが、日本の労働法制や雇用慣行においては、景気が良くなり利益が増大したとしても、企業はおいそれと簡単には賃金を上げられない状況にあるからです。

景気回復⇒賃金上昇とはならない

 なぜ賃金が上がらないのか。景気が悪くて企業が利益を上げられないからでしょうか。これは明確に違うといえます。2012年末より始まった、アベノミクスの一部であるインフレターゲットと異次元の量的緩和により、円安が誘導されるなどして上場企業などは空前の利益をあげました。日経平均株価もV字回復し、少なくとも上場しているような大企業について「景気が良かった」のは紛れもない事実です。そして、その大企業も社員の給与UPには及び腰でした。現在も与野党問わず、経団連に賃上げを要請したり、貯め込んだ内部留保を吐き出して労働者に還元すべきとの主張が多くなされています。このことから、景気が回復していないのではなく、景気が回復したのに賃金上昇には繋がっていないというのが現在の状況といえるでしょう。

 企業がなぜ賃上げを渋るのか。一番大きな理由は、労働条件の「不利益変更法理」です。会社は自由に社員の給与を決められると考えている人がいますが、それは半分間違っているといえます。社員の給与決定は確かに会社の裁量権の範囲ですが、その決定は会社が自ら作成した「就業規則」に従って行われなくてはなりません。そして、就業規則に定められた労働条件を低下させるには、「労働者との合意」か「合理的な理由」が必要なのです。このことは、労働契約法の8条と10条に規定されています。

 社員の給与を上げようとするならば、就業規則に書かれた賃金表を書き換えなくてはいけません。いわゆる「ベースアップ」「ベア」と呼ばれるものです。しかし一度上げてしまったものは、簡単には下げられません。先ほどの不利益変更法理があるからです。判例の解説は割愛しますが、前述した「労働者との合意」も「合理的な理由」も非常に高いハードルなのであります。たとえば労働条件が下がる社員全員の署名捺印があったとしても、果たしてそれが本当に自由な意思のもとで行われた署名捺印なのかどうかが厳しく問われることになります。売り上げが下がり基調であっても、企業全体として黒字であるなら合理的な理由があるとは、まず認められません。結果、企業は空前の利益を上げたとしても、月額の給与を上げることには躊躇してしまい、比較的企業の裁量が認められている一時金(ボーナス・賞与)の上昇に留めてしまうことになるわけなのです。

論点がどこにあるのかを考える

 他にもまだまだ賃金が上げられない理由はありますが、少なくとも「景気が回復していないから賃金が上がっていない」というわけではないと言えるでしょう。賃金を上昇させるには、労働法の岩盤規制に手を付けることが必要なのではないかと思います。労働者保護の観点から、簡単には結論の出ない問題ではありますが、厚生労働省の審議会等で、継続的に議論していくべき問題だと思います。

 「そもそも景気が回復していなかった」という論点がズレた主張からは、プラスの方向へ進む余地が全くありません。統計不正は厚労省の体質、賃金が上がらないのは労働法の岩盤規制、論点を整理して、それぞれの問題で解決策を探っていくことが重要です。今回は、論点がズレてますよという主張に重きを置きましたが、賃金を上げにくい他の理由や、労働法の岩盤規制につきましても、別の機会に書いていきたいと思います。

流浪の社会保険労務士

1983年生まれ。最後の氷河期世代。大企業向け社労士法人で外部専門家として培った知見を活かし、就業規則・人事制度・労務手続フローなど、労務管理をデザインする。社労士法人退職後は、シリーズAの資金調達に成功した急成長中ベンチャーに入社。2年後のIPOを見据えた労務管理体制をゼロから構築した。その後、M&Aに積極的な東証一部上場のIT企業にて、前例にとらわれない労務管理体制の改革や新制度の導入、グループ会社に対する労務管理支援を行う。

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